読書会1:環境としての建築(著:レイナーバンハム)

小見山陽介

『環境としての建築』
原題は『Architecture of the Well-tempered Environment』という。だからこれは大いなる誤訳かもしれない。しかし最終章まで読み進んだとき、むしろ僕はこの題名のほうがしっくりくるような気がしたのである。建築という概念が解体されていく溶解状態をバンハムは描いているのであると。「環境」という言葉は使われる場面で異なる意味を持っている。環境保護といえばそれは地球上の自然のことであり、僕らデコの母体となったの環境系研究室は建築の設備を扱う研究室である。しかし本書の題名で言うところの環境とはそのどちらとも少しずつ関係しているが、違う。バンハムは、技術的革新に対して今まで建築家たちは自分とは関係のないものとして目を背けてきてしまった、と批判する。彼が本書中で語るのは、そうした流れに逆らって技術と向き合ってきた者たちの姿である。しかしそれらは必ずしも通常の建築史の中で扱われるような出来事ではなかった。ヨーロッパとアメリカを比較したくだりが象徴的である。技術の文明化を目指し機械美学の確立を目指したヨーロッパの近代建築が得た結論は、合理的な思考に基づく合衆国のエンジニア的アプローチが到達していたものと結果の部分では一致したのであるが、それら現実的な機械技術は理想としての機械美学とはけして相容れることのできないものであった、というように。バンハムは本書の内容を「前例のない建築史」であると表明する。それに対する建築の正史とは、建築を形態と機能に分割し、機械的な部分は文化的な部分とは対立するものである、と考えるものであった。その結果「建築」として扱える範疇は非常に狭いものになってしまい、その制限内で建築を考えるかぎり機械設備という新しい要望は克服すべきものであり、しかしかえって全面的な屈従に終わってしまうのである。しかしバンハムは、ドライブインシアターを例に挙げ、現代では「建築」すること以外の手段でも管理された環境をつくることはできると言い放つ。それらの“建築物”では、環境技術が建築の不快適さを補助しているのではなく、環境技術そのものが空間をつくっている。それを従来の建築史における建築と区別してバンハムは仮に「環境」と本書中で呼んでいるのである。環境調整技術によってつくられた広義の空間が「環境」なのである。ここまで建築の概念を拡張すれば、フラーもアーキグラムラスヴェガスも建築なのである。彼らの建築を建築史に記載する術こそが、本書の題名なのである。いずれにも共通しているのは、建築家が機械という新たな存在に対して身構える一方で、それらは建築の門外漢によってつくられた空間であるという点だ。バンハムは機械時代の建築、環境調整された建築が今後千年残る=歴史になるためには、その方法に対してふさわしい造形が一般化する必要があると結論付ける。近代に出現したあたらしい空間概念=環境は建築のエッジを押し広げることとなった。新しい技術・新しい要望に対し、建築もその根本から変わっていくことを求められている。その際に、建築はこういうものであるという固定観念は取り払わなければならない。フランクロイド・ライトのサステイナブルデザイン的先駆性に注目した唯一の本でもある。
邦訳版は現在出版社で絶版扱いとなっている。復刊が待たれる。