読書会3:成長の限界(著:ドネラ•H•メドウズ)

〜多元論のススメ サステナブルな社会の実現のために必要なこと〜
文責:川島範久 

1972年に出版されたこの「成長の限界」という本の中で述べられていることと全く同じようなことが30年以上経った現在でも声高に叫ばれているというのは皮肉なことである。この本の中で著者は我々人類に次の様な警鐘を鳴らした。現在このまま人類が人口と工業の成長を続けると100年以内に地球上の成長は限界点に到達する。仮に新しい技術進歩を取り入れたとしても、必ずや食糧不足、資源枯渇、汚染の限界のいずれかに突き当たり「成長の限界」をむかえる。
そこで次の様な提案をする。我々人類は、人口と資本を増加させる力と減少させる力とが制御されたバランスに達し人口と資本が本質的に安定的な状態であるような「均衡状態の世界」をつくれるように成長の計画的抑制をし、突発的で制御不可能な破局を招くことがない持続性をもち、すべての人々の基本的な物質的要求を充足させる能力をもつようなサステナブルな社会を実現するべきである。
 さらには、技術進歩は、成長の限界を打破するものとしてではなく、均衡状態を実現するために求められるものであると言い、具体的に以下の技術進歩の必要性を訴える。これはまさに現在でもサステナブルな社会の実現のために必要だと叫ばれていることである。
1. 廃棄物の回収、汚染の防除、不用物を再生利用するための新しい方法。
2. 資源の枯渇の速度を減らすためのより効率のよい再循環技術。
3. 資本の減耗率を最小にするため、製品の寿命を増加し、修復を容易にするよう
なより優れた設計。
4. もっとも汚染の少ない動力源である太陽エネルギーを利用すること。
5. 生態学的相互関係をより完全に理解した上で、害虫を自然的な方法で駆除する方法。
6. 死亡率を減少させるような医療の進歩。
7. 減少する死亡率と出生率を等しくすることをたすける避妊法の進歩。
そして最後に筆者は言う。人類はそのような社会を実現できるだけの強力な知識と道具と資源を併せ持っている。唯一欠けている2つの要素は、人類を均衡社会に導きうるような現実的かつ長期的な目標とそれを達しようとする人間の意思であると。
さて、ここからが本題。以上の事は正論だと思うし、大賛成である。是非そのようなサステナブルな社会を実現しようではないか。しかし、重要なのは方法論である。みな頭では正しいとわかっていても、なかなかそれに向けて動き出せない。30年前と全く同じ事が現在でも叫ばれているのがまさにそれを表しているだろう。思うに、現在はまだまだそれを実現する素地さえ整っていないのではないか。問題はとくに「人々の価値観」にあると考えている。人々の価値観が「一元的」である、すなわち「資本」という物差しでしかモノの価値を捉える事ができなくなっていることが大きな問題だと考えているのである。
ただ、そのような問題をかかえているのは主に都市化している場所である。都市は全て人間の意識が作り上げたものであり、自然は一切排除されている。草木があるといってもそれらは人間が計画的に植えたり整理したものである。冷静に身の回りを見てみると、人間の手の加わっていない自然なんてどこにもない。都市はまさに人間の意識の産物なのだと。そんな人間の意識のみで構成された都市に住む人間が物事を、人間の意識が作り上げた物差しでしか見ることができないのはごくごく自然なことなのかもしれない。
しかし、僕らのご先祖たちがまだ狩猟や採集ばかりをしていた頃のことを考えてみると、その頃は価値観は非常に「多元的」だったのではないかと思われる。
この頃はそもそも人口にも資本にも本質的な限界があった。動植物の獲物を一定以上取ると翌年にはかならず不足し、飢えにおそわれる。だからけっして目いっぱい働いてはならず、ライオンも狩猟民もブラブラしている時間が長かったのである。何らかの理由で気候が極端に変わったりすると、実りが減り、動物も減り、人間は飢えにおそわれる。まさに自然に支配されていたのである。
そのような世界では、現代のような価値観では生きていけない。自分の「資本」、この時代で言えば「食糧」だったりするものの「量」に価値を置いていてはやっていけないのである。「資本」は生きていく上で最低限の量で満足することにして、それ以外のものに価値を置くしかなかったはずである。生きていく上で最低限の実りが維持されますようにと祈る宗教活動に価値を置くひともいれば、愛するひとの命、子どもの命を守ることに価値を置くひともいたかもしれない。もしかしたら狩猟する際のテクニックを磨くことに価値を感じていたひともいたかもしれないし、祈りのための壁画を描くという行為に価値を感じていたひともいたかもしれない。
 そう。かつての地球では、人々は多元的な価値観を持ち、意図せずとも均衡状態の世界=サステナブルな社会を実現していたのである。しかし、農業が発見されてからそれは変わり出した。働けば働いただけ田畑が広がり沢山実り、人口が増え、増えた人口は田畑の拡大に向かうというサイクルが生まれたのだ。結果、都市が生まれ、人口と工業生産の幾何級数的な成長が始まり、軍需競争、環境悪化、人口爆発、経済停滞といった世界的かつ長期的な問題を生んだのである。
そして「成長の限界」が見えてきたのである。そのためにはこの本で述べられているように、成長を抑制して「均衡社会」を目指さなければならない。その際に必要になるのが、我々のご先祖たちが持っていた多元的な価値感である。冷静になって身の回りのことを考えてみよう。よく見てみれば、この世の中には「資本」「お金」「経済」といった物差しでは測れないものが一杯あるではないか。サステナブルな社会を目指すために、うわべだけの制度の改正や小手先の技術の追求ではなくて、まずは多元的な価値観が認められる様な社会にすることから始めよう。自分が出世して資本を増やすことよりも、例えば「子どもを育てる事」の方がよっぽど価値のあることかもしれない。現在日本では少子化が問題になっているが、国の制度が悪いだなんだ言われているが、実は、子どもを産むと育児に時間をとられ自分の出世が遅れる事を心配してというケースが多く、要はただ「子ども」自体に価値を感じていないことが最も大きな原因なのである。つまり「資本」という物差しでしか物事を考えられなくなっているから、「子ども」はただそれを邪魔するものとしか捉えられないのだ。
資本の物差しで評価しにくい芸術やスポーツの方にだってもっと価値を認めるべきかもしれないし、愛するヒトとゆっくり時を過ごすことだってもっともっと価値を認めるべきかもしれない。
資本の「増加」にしか価値を認めないという考えは捨てて、資本は「現状維持」でよしとにして、その余暇時間で行うことに価値を認めていく。それでようやくサステナブルな社会を目指す条件が整うのではないだろうか。