100万分の3、な未来


100万分の3、な未来

(文責:小見山陽介)


雨模様の天気の中、高崎線の鈍行に揺られて群馬から東京へ帰る。


電車に乗る前に、母と高崎市美術館に「百年の愚行」展を観に行った。

人間がこの一世紀の間に犯してきた「愚かしい行い」を、100枚の報道写真で振り返るというもの。無作為に切り張りされた各国の新聞の上に、A3サイズほどにプリントアウトされた写真がざっくりと乗せられて額装されている。環境汚染、自然破壊、大量消費、戦争、差別、孤児、難民…。当時から明らかに「愚行だ」とみなされていたものもあれば、時代を経て「愚行だった」とみなされるようになったものもある。写真にタイトルのついていないものはたぶん後者が多い。「報道」写真よりも、幸せな生活の背後に「たまたま写りこんで後世に残ってしまった」ようなそんな愚行に薄ら寒さを覚える。


一階の展示室は、人間が生活の利便化の代償に地球環境(=自らの住環境)にどれだけのダメージを与えてきたかという展示。二階は、人間が他の生物たちをいかにないがしろにしてきたかという展示。三階は、人間が同じ人間に対していかに愚かしい仕打ちを与えてきたかという展示。以前に弟と一緒にこの展示を観に来たある高校生は、三階の展示室を見てショックのあまり過呼吸を起こしてしまったという。人間が人間自身に対して犯した愚行は、確かに一番痛ましい。世界初の原子爆弾爆破実験場「トリニティ・スポット」の様子を伝える写真につけられたキャプション「科学者たちは、この実験によって地球の大気がすべて爆発してしまう可能性を計算し、それが100万分の3の確率であるとの試算結果を踏まえて、実験に踏み切った」を読んで、数字で科学的に説明することの軽さと、それでは割り切れない怖さを感じた。


過去の「愚行」は、“今”という客観的な(いや、むしろ極端に主観的な)視点を持って初めて明らかになる。100年後、200年後の「今」、僕らの時代はいったいいくつの愚行を犯したと評価されているのだろうか…と、昨晩弟を交えて家族で話したりもしたのだった。展示された100枚(厳密には97枚)の、愚行と呼ぶにはあまりにも「艶かしく美しい」それらの写真たちを観ながら、人間はしかし愚行を犯しながら生きていくしかないのではないかという予感が頭をかすめた。その愚行が人間の存在を許す範囲内であれば、これからも地球上で僕らは生きていくのだろう。

その確率はいったいいくら、なんて数字を聞いても安心はできないけれど。